1907年、莫大な建築費を投じた遷喬尋常小学校の校舎が完成した。江川三郎八による設計は校舎中央部にある"折り上げ格(ごう)天井"を用いた講堂など随所に見所がある優れた建築物だ。そんな立派な校舎だが、明治期の美術教育(図画教育)を見てみると、"臨画"と言うお手本通りに絵を描かせる授業が主流だったようである。鹿鳴館時代と言う言葉に代表されるように西洋文化を必死に吸収しようとする政府の意向が図画教育にも反映されてか、鉛筆による図画指導が早々に導入されていた。その欧化に反旗を掲げ、日本独自の毛筆画を大切にしようと運動したのが、フェノロサのもとで日本美術の研究をしていた、東京美術学校初代校長の岡倉天心である。
昨今の"教育"でも"グローバル化"が謳われて久しいが、一方で地域性、民族性といった"独自性"を大切にしようとする動きもみられる。明治も令和も"グローバルスタンダード"と"ダイバーシティ"の狭間、限られた時間の中で、生徒たちにとって何が大切であるかを暗中模索する、所謂、"ペンデュラムプロブレム"からなかなか脱却出来ないようである。
アトリエGの絵画空間/後藤晋
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